絵本『3びきのくま』について

実家を出てから、今ではほとんど開くこともなくなってしまったけれど、時々ふとした瞬間に─眠る前に母が読み聞かせをしてくれたこととともに─絵本のなかの物語について思い出すことがある。そんなとき、私は物語の世界に呼ばれたのだと感じて嬉しくなる。すべてがたっぷりと甘く満ち足りていた黄金時代。物語が、私に再びおいでと言ってくれている。

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引用:https://www.holp-pub.co.jp/book/b516349.html

今日の私を呼び戻した物語は、『3匹のくま』(ポール・ガルドン著・ただひろみ訳、ほるぷ出版)。数日前の晩ごはんがお粥だったことで、私はこの物語の世界へ思いを馳せたのだった。プルーストのマドレーヌではないけれど、私は食べ物がきっかけで絵本の中の世界を思い出すことが多い。食い意地が張っていると言われればそれまでかもしれないが、幼い子供の口唇的な欲動を引き出す物語ほど、記憶に残るものだろう。じっさい、子供向けの絵本にはたくさんの食べ物が登場する。

 

『3匹のくま』を初めて読んだときは、ただひたすらに「くま」達の方に感情移入するばかりで、侵入者として「くま」達の(しかも、まだ生活能力にとぼしい「こぐま」の!)お粥を奪い、椅子を壊し、聖域であるベッドをめちゃくちゃに荒らした少女=人間に憎しみの感情を抱いたものだった。挿絵に描かれた少女の表情も強かかつ無神経な感じがよく出ていて(と、当時は思った)読み返すたびに少女への憎しみが増したのを覚えている。

「くま」という、動物の側になんの疑いもなく感情移入をし、人間に対して怒りを抱くこと。それはジル・ドゥルーズ的に言えば「くま」に生成変化していることにほかならない。あるいは、レヴィ=ストロース的な問いを経るならば、「くま」という動物が私たち人間(の幼児)へ自らの身体回路を開く者であるがゆえに、私たちは動物へ愛着を持つのかもしれない。

しかし今になって思い出してみたときに、ひたすら「くま」になりきることができなくなっている自分がいることにも気づく。生成変化できる私の力は、少しだけ弱くなってしまったようだ。それは、物語の国を一度でも閉じてしまった者への罰なのかもしれない。

その代わりに、この物語の構造について私はほんの少しだけ考えられるようになった。少女の名前はたしかキャンディーだった。甘い砂糖菓子の名を持つ少女は、雑食性の大型野生動物─しかし、彼らはお粥を作ったり椅子を拵えたりするなど、かなり人間文化に植民化されているのだが─「くま」の所有物や生活のささやかな楽しみを奪いながらも、その「おかえし」にお腹から内臓を抉りとられながら食べられたりすることなく、まんまと逃げおおせる。

少女は、「くま」の所有物を一方的に盗む。それも、自分にとって最も快楽を引き出すものを貪欲に漁ることによって。物語のなかでは、それはただ道徳的価値観により平凡な形で評価されてしまう(=キャンディーが「くま」に怒られることで、人の物を取ってはならないことを教訓として示唆しつつ、結局少女はその決定的な裁きを受けずに逃走し、事なきを得る。「くま」の怒りは少女に代償を求めない。「くま」は所有物だけではなく、狩猟・捕食という「くま」の生活技能も失効させられている。)のだけれど、ここにはすでに人間と動物(あるいは自然と言い換えてもよいかもしれない)における政治の一端が窺えるかもしれない。

一方で、人間文化を植えられた「くま」は、本来の「熊」としての生活を奪われていながら、人間と熊との境界に位置するような、どちらつかずの新たな生活を営んでいる。だからこそ少女─アリスにしろ赤ずきんにしろ、少女とはまた、子供と大人、人間と非人間のあわいに位置していることで、様々な世界を旅することができるモティーフであろうと思う─は、人間文化としてのお粥の匂いのする「くま」の家に侵入した。これが「熊」の巣穴であれば、おそらく意識的には近づかなかっただろう。自然から資源を奪い取る存在としての人間である一方で、少女は、森をふらつき獣と人間のあわいを自由に彷徨う存在でもある。その彷徨は、少女の領域横断性と、「くま」というクレオールによって叶えられる。獣を畏怖と克服の対象としてのみ見做す大人の人間とは異なり、その子はまだその境目を見出していなかった。けれども、「くま」の温かなベッドでの眠りは続かない。じっと見つめられて目を覚ましてしまった少女は、ただ驚いたり罪の意識を抱いて逃げただけではないのだろうと私は思う。小さな「こぐま」用のベッドから目覚めてしまったこと。「目覚め」とは、あわいを彷徨う夢からの覚醒だったのかもしれない。

それだけに、幼い頃の私はキャンディーという少女が結局その後どうなったのかを考えなかったし、考えたくもなかった。少女は成長してしまえば女になり、たいていは人間の男や社会システムに消費され、食べられてしまう。それよりは、「くま」という人間と自然の交叉した存在の、あたたかなお腹に眠ったまま飲み込まれることで「くま」に生成変化し、いつまでも領域横断の可能性を保った自由な少女として森のなかを彷徨うほうがずっと良かったのではないか。

「くま」の家を飛び出してしまったキャンディーは、森を抜けて、きっと大人になってしまったのだろう。でも、わずかでも彼女が冴えており、子供としての才能があるならば、そのあわいをまた彷徨った日のことを夢見るはずた。

人は道徳的なお話に自らの生き方を無理矢理当てはめて大人になりたがるのかもしれない。でも、私はむしろその逆だ。いつまでも柔らかいお粥だけで生をつなぎ、小さくて可愛らしい家具に囲まれて、眠くなったらベッドで丸くなって眠りたい。

少女を、子供を、永遠に心に棲まわせること。物語は、成長や道徳心の育成に役立つのではない。いかにして子供に生成変化することができるかを示唆するのだ。