絵本『こいぬのうんち』について

実家を出てから、今ではほとんど開くこともなくなってしまったけれど、時々ふとした瞬間に─眠る前に母が読み聞かせをしてくれたこととともに─絵本のなかの物語について思い出すことがある。そんなとき、私は物語の世界に呼ばれたのだと感じて嬉しくなる。すべてがたっぷりと甘く満ち足りていた黄金時代。物語が、私に再びおいでと言ってくれている。

 

f:id:yominokuni0801:20220128204037j:plain

引用元:https://www.heibonsha.co.jp/book/b162230.html

今日私を呼び戻した本は、通っていたキリスト教系の幼稚園でもらった『こいぬのうんち』(クォン・ジョンセン著、ピョン・スギャ訳、チョン・スンガク絵、平凡社)。

口唇期的な欲動と同じくらいの頻度で子供向けの絵本に登場するのは、肛門的な欲動の描写。ところでこの物語で子供が同一化する対象は「うんち」をする登場人物の方ではなく、「うんち」そのものである。

「こいぬ」によって道端に生み落とされた「うんち」は、その「生誕」直後から土くれや鳥たちによって汚く役に立たない存在として蔑まれ、己の存在価値を見出すことができずに悲しみに暮れる。けれどたんぽぽだけは、自身がやがては花を咲かせることを話し、そのために「うんち」の存在が必要であることを説く。その話を聞いた「うんち」は、何かの役に立てることに無上の喜びを感じるのだった。あるとき雨が降り、「うんち」は雨水によってその身を激しく打たれ、細かな粒子のようになって溶けてゆく。たんぽぽの花の栄養としてその身を捧げ、花が咲くのを夢見ながら、「うんち」はその姿を消す。その後、春が訪れてたんぽぽぽの花は咲く。

通常の読み方であれば、文字通り「役に立たないと思われているものも何かの役に立つのだ」と言う道徳的(かつ進化生物学的?)な教訓になるのかもしれない。

幼い頃にこの物語を読んだ私は、しかし「うんち」が雨水に溶けて自身を消失させてゆく瞬間の描写に、ある種のカタルシスーこれは『よだかの星』を読むときにも感じるーと同時に「変身」のエロティシズムを感じずにはいられなかった。

生命の循環のためには生と死の両輪が必要で、その一瞬ごとの回転のたびに生き物は姿形を変えてゆく。変身のためには自己の解体が必要だ。その解体に際しては、しばしば痛みが伴うだろう。その痛みを喜びとして享受すること。

ままならないこの身の輪郭を解いて、別の仕方で再び生き直すことに全身で懸けること。「私」という輪郭を解いて、隣にいる「あなた」に分身すること。自己を失いながら、別の何かに新たに生成し変化すること。

自身を消失させるまでに至る過程と、そこに伴う喜びの精神への賛美。きわめて素朴な意味で「いわゆるキリスト教的なテーマ」として成立するのかもしれないが、しかしそれはもはや「自己犠牲」的な色を帯びていないと考えることもできるのかもしれない。なぜならば、その「自己」とは、現れたと思えば消える、常に移ろいゆくものだからだ。

春に咲いたたんぽぽの花は、もはやかつて自らの将来を話し「うんち」に存在の必要性を説いたたんぽぽではない。また、養分として吸収した「うんち」そのものでもない。そのどちらでもあり、どちらでもないような曖昧な状態で、花は咲き、やがて枯れて、風の流れとともにまた新たな生成変化の過程を作り出してゆくのだろう。

さらにいうと、そうなる以前の「うんち」はかつて「こいぬ」の一部でもあったのであり、その時にもまたそこに「自己」の意識はなかった。

将来必ず訪れる死の瞬間は、この物語の「うんち」のように、「自己」を意識せず穏やかで喜びに満ちた気持で消えて行けたら最も理想的だと思う。とはいえこの身が滅んでなお生成変化し続けるのもなんだかなあ、という自意識を完全には消し去れないのが人間なのかもしれない。墓石の下の土に分解されて新たな生を紡いだり、散骨先の大地や海で伸びやかに漂う勇気は、私にはまだ湧かない。