びろうどの部屋について:生まれてきたくなかったこととの付き合い方

生まれてきたくなかった。胎内にいた頃のままでいたかった。こうした欲望とのつきあい方について。

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最近は反出生主義の議論も盛んで、ご多分にもれず私もシオランなどに癒しを求めるタイプの一人ですが、生まれてきてしまいながらもまだ何も知らない子供あるいは胎児の状態のときのすべてを満たされた状態を再現すべく、日常生活のさまざまなところで努めているようなところがあります。

1部屋の模様替えをする

たとえば、私の部屋は血のように赤い天鵞絨のカーテンとソファ、絨毯を敷きつめてアンティークやヴィンテージの家具を並べた部屋です。

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映画『叫びとささやき』の美術を意識したわけではありませんが、大学院での生活がうまくいかなくなりはじめたころからインテリアへのこだわりが異様に加速して結果的にこのようになりました。

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ちなみに、クオリティに大きな差はありますが、憧れの鎌倉は澁澤龍彦邸書斎や客間の雰囲気をほんの少しだけ意識しています。澁澤によれば「胎内回帰願望は、無意識の死の願望とつながっている」とのことですが、天鵞絨を敷きつめた部屋は音や衝撃を吸収してくれるのでたいへん静かで、動きや不安定さを感じにくく居心地がよいものです。涅槃 ニルヴァーナとは死んだ後の静止した状態にほかなりませんが、その部屋で過ごすときにはまさにそうした状態に近いのかなと思いを巡らせたりします。長い時間の経過のあと、静謐に佇む机や椅子や照明などのアンティークの家具も、そうした雰囲気を作っているのかもしれません。

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血のように赤く柔らかな布の襞の重なる部屋で、まるで子宮内膜のうえでまどろむ胎児のように落ち着く時間は、この世に存在する苦しみを少しだけ和らげ癒やしてくれるように思います。

 

2 衣服という想像的な皮膜を纏う

それから、ふたつ目の例として、私はどんなに暑い日でも肌ざわりのなめらかな厚手のタイツを脚に纏っています。起きているときも眠っているときもつねに履いていなければ不安なのです。寒いからとか地面に落ちた埃などで脚が汚れるのが嫌だという理由もあるのですが、それ以上に、脚が被膜に覆われており世界に対して曝されていないこと、適度に圧迫されていることをなかば強迫的にもとめる気持によるもので、これは2歳~3歳くらいの頃から今にいたるまでずっと続いています。

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私だけではなく、夜眠るときにタイツやストッキングのような被膜で脚を覆うことで眠れるという知人の意見もちらほら聞いたりします。

あくまで個人的な考えですが、私のような理由でタイツが手放せない人の象徴的な身体イメージというのは、以下のような欲望を抱えた状態であるような気がしています。たとえば脚とタイツをファルスとヴァギナの象徴としてとらえたとき、被膜としてのヴァギナがちょうどファルスを包み込む関係になります。フロイトによる精神分裂病の症例観察のうちにも、靴下を強迫的に脱ぎ履きするというものがありますが、脚を覆うタイツがどうしても必要というのは、母親の求める代理物としてのファルス(=子供)として生まれでてくることを拒絶し、ずっと母親と胎内で結びついていたいという欲望があるのではないか。私はプロの精神分析家ではないのでこの解釈が正しいのかはわかりませんが、あくまで自分という症例に関してはこの微妙な解釈に納得しています。

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「夜とは、人間を孤独にする時間である。黒ビロードのような親しい闇につつまれて、夜、人間の夢想の翼は羽ばたき、思索の糸はつむぎ出される。」これも澁澤龍彦の言葉ですが、胎内での環境にも似た闇としてのタイツにつつまれるとき、人は穏やかな気分になり、夢の世界へ足を進めてゆけるのではないでしょうか。ちなみに私はずっと黒タイツです。

 

なんだかはじめから変態めいたブログになってしまいましたが、びろうどの部屋という名前は、こうした自分特有のこだわりだとか、それに伴う出来事についてゆるく書いてゆけたらと思って名付けたことをここに記しておこうと思います。